【書名】神社が語る古代12氏族の正体
【著者】関 裕二
【発行】祥伝社(祥伝社新書)
【目次】序編 「神道」と日本人;第一編 ヤマト建国の立役者となった氏族たち:第一章 出雲国造家(いずもこくそうけ)─出雲大社,第二章 物部氏─石上(いそのかみ)神宮・磐船(いわふね)神社,第三章 蘇我氏─宗我坐宗我都比古(そがにますそがつひこ)神社;第二編 ヤマト建国の秘密を知る氏族たち:第四章 三輪氏─大神(おおみわ)神社,第五章 尾張氏─熱田神宮,第六章 倭(やまと)氏─大和(おおやまと)神社;第三編 暗躍し勝ち残った氏族たち:第七章 中臣(なかとみ)氏─枚岡(ひらおか)神社,第八章 藤原氏─春日大社,第九章 天皇家─伊勢神宮;第四編 切り捨てられた氏族たち:第十章 大伴氏─伴林氏(ともはやしのうじ)神社・降幡(ふるはた)神社,第十一章 阿倍氏─敢国(あえくに)神社,第十二章 秦氏─伏見稲荷大社
【Tags】関裕二,古代氏族,神道,神社,氏神,出雲国造家,物部氏,蘇我氏,三輪氏,尾張氏,倭氏,中臣氏,藤原氏,天皇家,大伴氏,阿倍氏,秦氏,出雲大社,石上神宮,磐船神社,宗我坐宗我都比古神社,大神神社,熱田神宮,大和神社,枚岡神社,春日大社,伊勢神宮,伴林氏神社,降幡神社,敢国神社,伏見稲荷大社

【評価】C
【評者】Vincent A.
【書評】本書の評価は高くなく,レビューすべきか迷いましたが,著者がこれまで多くの書を著している歴史家・歴史作家であること,直近で私(評者)が古代の渡来氏族に関する新書のレビューをしたことから,古代氏族を扱う本書をレビューすることにしました。

本書では,出雲国造家(いずもこくそうけ),物部氏,蘇我氏,三輪氏,尾張氏,倭(やまと)氏,中臣(なかとみ)氏,藤原氏,天皇家,大伴氏,阿倍氏,秦氏の12氏族が扱われており,各氏族の歴史を,彼らのいわゆる氏神(うじがみ)に相当する神社・祭神に言及しつつ説明しています。ただ,本書は全体として,氏族の歴史が主で,神社の歴史・祭神の由緒が従という関係で記述が進められています。各氏族にまつわる史実や謎については多彩な事柄が述べられているのですが,その一方で神社・祭神の扱いは軽く,あたかも氏族の歴史を語るときの切り口のような観を呈しています。

本書タイトルには「神社が語る」とありますが,実際は神社が何を語っているのか,とてもわかりにくいのです。そうなってしまった理由は,大きくふたつ考えられます。

第一は,少なくとも本書に関する限り著者の「作風」が“歴史の謎解き”に終始していることです。著者は氏族や神社に関するいくつもの歴史上の謎に次々と言及し,一方的に──どのような客観的資料があるのか,あるいはないのかを示さずに──謎解きを繰り返しています。ひとつひとつの謎が歴史学上どのような意味合いをもつのか説明があるわけではなく,辛辣にいえば,自分で好きに謎を設定し,つぎに予め用意した答えを明かしているかのようです。こういった「作風」は謎解き好きの読者には好まれるかもしれませんが,あまりに多くの謎をちりばめてしまった結果,どこをポイントとして読み進めればよいのかわからなくなっています。

第二は,著者の神道に対する見方がやや単純すぎるのではないかということです。氏族や神社の歴史に関する著者の博識には敬服しますが,それはあくまで史実に関する限りであって,神道や神道の神については,著者は実際はあまり考えたことがないのではないかという印象すら受けます。例えば,序編「『神道』と日本人」につぎのような一文があります。

多神教と一神教
 そこでまずはっきりさせておきたいのは,そもそも日本人の原始の信仰とはどのようなものなのか,ということである。
 江戸時代の国学者,本居宣長は,太古の日本人が想像した「神」(モノ)の姿について,『古事記伝』のなかで,「世のつねならず,すぐれたる徳のありてかしこきもの」といいあらわした。ここでいう「すぐれたる」は,ものごとの程度の激しいことをさし,「徳」は「働き」をさしている。神とは,善悪を超越し,「人智を超えた力を発揮するもの」とみなした。
 このように本居宣長は,日本人にとっての「カミ」の正体を,端的にいいあらわした。これ以上の言葉を加える必要もないほど,完璧な表現ではなかろうか。「カミ」は,人間の力ではどうすることもできない,偉大で恐ろしい目に見えない力,すなわち「大自然そのもの」と考えれば,たいへんわかりやすい。そして,今日的な言い方をすれば,神道の根源は,「アニミズムと多神教だった」ということになる。
 一般的に,神というものは,「正義の味方」とは限らない。じつに人間くさく,悪さもする。時には,人々を恐怖のどん底に突き落とす。天変地異や疫病を振りまき,人々を殺していく。そうかと思うと,幸や豊穣をもたらす。それはなぜかといえば,「カミは大自然そのもの」だからだ。
 そして神は,「祟る鬼」として世にあらわれ,人々に祀られることによって「やさしい神」に変身するというのが,基本的な多神教の神概念であろう。(pp32-33)

先日,私(評者)はある神道入門書についてレビューしたときに,評者のつたない経験からすると,神の説明を語義・語源あるいは本居宣長の“神定義”から始める書は,往々にして記述に深みがなく,うがった見方をすれば,神の本質を説明できないがために語義・語源の話題で“お茶を濁している”のではないかとすら思える,と記したのですが,残念ながら本書にもそれが当てはまるようです。

本居宣長の“神定義”は確かに神の一面を述べていますが,それが神のすべてではないのです。それはともかく,問題は,その定義と「カミは大自然そのもの」という著者の神認識が簡単には結びつかないのです──かなり飛躍があります。さらにいえば,“大自然そのもの”の神がなぜ「やさしい神」となれるのか,本書の記述ではまったく要領を得ません。著者は何か思いついたことを散文的に述べているのではと勘ぐりたくなります。

読者の関心を本論へと導くための序論で神道について不必要に仰々しく構えてしまったため,かえって第一章以降において,神社や氏神がもっぱら“史実”として歴史に登場するレベルでしか描かれていないことと整合性がつかなくなっています。

上記引用部の一文を記すにあたり,著者は「多神教と一神教」という二項対立的ないし対立概念的な項立てをしていますが,これも大変に気になるところです。なぜなら,多神教というのは,そもそも一神教文化圏で成り立つ概念であって,仏教文化圏や神道文化圏でその言葉が使えるかどうか微妙な(深い)問題があるからです。いわば,西欧的な物差しで東洋的なものがどこまで図れるのかという根源的な問いでもあります。これはアニミズムという一神教文化圏的発想の概念についても同様です。

おそらく著者はそこまで深く考えずに記述を進めたのだと思いますが,神道や神の説明に多神教の概念を持ち出す必要は特にないように思いますし,本書の「序編」に記される著者の神観念・神認識は,第一章以下に述べられる各氏族の氏神や鎮守社の歴史とほとんど関係がないので,少々荒っぽくいえば,序編(序章)はなくても本書の論述にあまり影響がなかったように思われます。

古代氏族や神社の歴史について著者は相当の知識を持っておられるはずで,要はその知識の取りまとめ方ではないかと思います。“謎解き”にこだわらずに,各氏族の血筋や政治社会的特徴,そして彼らの氏神が祀られていた神社の歴史・由緒などを淡々と述べれば,神道に深く立ち入らなくとも,本書の趣旨に沿う内容にまとめることができたように思います。

*初稿2020/09/16

書評:神社が語る古代12氏族の正体

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