【書名】宗教と日本人 葬式仏教からスピリチュアル文化まで
【著者】岡本亮輔
【発行】中央公論社(中公新書)
【目次】序章 世俗社会の宗教:天上と地上の逆転,社会を包み込む宗教,世俗と宗教の分離,世俗化の指標,米国の教会離れ,組織的な信仰の衰退
第1章 宗教の分解──信仰・実践・所属から読み解く:1新宗教が見えなくしたもの,なぜ新宗教は注目されたのか,新宗教の衰退,新宗教のイメージ,2信仰中心の宗教,体系化された信仰,なぜ遺灰を分け合ってはならないのか,神道の信仰とは?救済のための信仰と実践,3初詣は宗教なのか,佐女川神社の寒中みそぎ祭り,信仰なき宗教,信仰と宗教的な心,カテゴリーとしての宗教概念,4宗教の要素分解,所属なき信仰,実践と所属の重要性
第2章 仏教の現代的役割──葬式仏教に何が求められているのか,1仏教的なものの変遷,治病から葬祭へ,寺請檀家制度,なぜ神葬祭は失敗したのか,2葬式仏教への批判──信仰なき儀礼執行,戦後の葬式仏教批判,外国人僧侶の現代日本宗教論,位牌と救済──読み込まれる先祖信仰,プラットフォームとしての盆踊り,3葬式の近代的創造,信仰とは別の広がり,死者供養を支えるイメージ,樹木葬は新しい葬法なのか,ドイツの樹木葬,葬祭儀礼の近代的創造
第3章 神社と郷土愛──パワースポットから地域コミュニティまで:1パワースポット化しやすい神社,なぜ公的とみなされるのか,観光資源としての神社,伊勢の政教連携,神道は宗教ではないのか?2地鎮祭は宗教なのか,政教分離とは,津地鎮祭訴訟,クリスマスツリーは宗教なのか,目的効果基準,誰も信じない宗教儀礼,3コミュニティと感情,宗教を超える感情,神社と地域意識,自治会神道,コミュニティの核としての神社のイメージ,神社なしのコミュニティ
第4章 スピリチュアル文化の隆盛──拡散する宗教情報:1ニューエイジ文化と東洋の聖者たち,スピリチュアリティとは何か,聖者の来日,欧米に発見された東洋の聖者たち,禅とZEN,2精神世界──書店が作った宗教文化,読売新聞の「精神世界の旅」連載,出版文化としての精神世界,山川夫妻の活躍,3精神世界からスピリチュアル文化へ,カプラのタオ自然学,霊性的知識人,一般メディアの中のスピリチュアル文化,パワースポット・ブームと兼業解説者,スピリチュアル文化のヴィジュアル性,4誰が聖なるものを語るのか,カトリック教会のニューエイジ文化批判,科学時代の神殺し
第5章 世俗社会で作られる宗教──エリアーデを超えて:1ミルチャ・エリアーデの宗教論,聖の巨人,聖体示現と宗教的人間,始源へのまなざし,2宗教シンボル論の影響と限界,多くの批判と疑問,若きエリアーデのヒマラヤ修行,エリアーデと日本の文学者たち,3古代宗教の現代的構築,古ヨーロッパの女神信仰,ケルトの発見と構築,4世俗社会が生み出す信仰,縄文シンボル論,縄文人は月を信仰したのか,豊かに語られる古代人の心,縄文を生きる人々,信仰なき信仰構築
終章 信仰なき社会のゆくえ:心というブラックボックス,1大きな宗教論の終わり,文明を枠づける宗教,虚構と信仰,瞑想の効用,2スピリチュアル・マーケットの出現,消費者優位の宗教市場,見えない信仰,消費される実践,3環境化する現代宗教,環境宗教論,ブランドとしての日本キリスト教,規範から環境へ,消費される宗教
【Tags】宗教,信仰,実践,所属,神道,仏教,キリスト教,新宗教,信仰なき宗教,信仰なき儀礼執行,信仰なき実践,信仰なき所属,所属なき信仰,先祖信仰,葬式仏教,神社,パワースポット,コミュニティ,スピリチュアル文化,信仰なき社会

【評価】C
【評者】Vincent A.
【書評】新書の「まえがき」には著者の執筆動機やその意図などが記されることが多く,読者にとっては本論を読み進める際の指標となり得るので,評者は必ず「まえがき」を読むようにしています。本書でも著者は「まえがき」で,過半の日本人には信仰がない一方で,冠婚葬祭や寺社参拝など人々が宗教と触れる機会は多いとしたうえで,「本書の目的は,こうした宗教と日本人との複雑な関係を解きほぐすことにある。その戦略を一言で言えば,信仰と組織を中心とする宗教論からの脱却だ。宗教を心や内面の問題に限定せず,信仰・実践・所属の三要素に分解し,教団や教会としてまとまらない,個人を中心とする現象に注目するのである」と述べています。日本の宗教論に新たな視点を提示するという意味では本書は意欲的な著作なのかもしれませんが,残念ながら本書の全体的な印象は「どうも要領を得ない」というものです。

内容が要領を得ないものについて書評を要領よくまとめるのは容易ではありません。そこで,やや変則的ではありますが,いくつかのポイントに分けて説明することにします。

Point 1:考察対象の曖昧さ

本書の書題は「宗教と日本人」です。このタイトルで扱える範囲は非情に広く,その意味ではやや漠然とした書題となっていますが,ここでいう曖昧さは書題のことではありません。曖昧なのは著者が本書で考察しようとする対象です。

「まえがき」を読む限りですが,著者の考え方のベースには“日本は特殊・特別です”論があるようで,日本における宗教と人間の関係は特殊・特別で,その関係は従来の宗教論では解きほぐせるものでなく,それゆえ自分は宗教を信仰・実践・所属の三要素に分解して考察するという手法を編み出した,ということでしょうか。

しかし,宗教と人間の関係が複雑なのは日本に特有の特徴とは考えにくく,伝統的宗教が残る国々においては,程度の差はあるとしても,その傾向があるはずです。また各国の習俗には宗教儀式の色合いを帯びた冠婚葬祭が必ず含まれるでしょうから,人々が宗教と触れる機会も日本だけが卓越して多いわけではない,ともいえるはずです。そうだとすると,“日本は特殊だから宗教を信仰・実践・所属の三要素に分解して考察する必要がある”というロジックが成り立たないように思います。

実際のところ,宗教には信仰・実践・所属という三つの要素があるというのであれば,そこでいう“宗教”が日本の宗教に限られる必然的理由はないはずで,例えば伝統宗教といわれる他の宗教にもこれら三要素が含まれ,したがって,宗教を信仰・実践・所属の三要素に分解して考察することは他の宗教についても可能なように思います──このような手法の汎用性について著者は何も触れていません。

著者は何らかの理由で“日本の宗教”だけを論じたかったのだろうと思いますが──それはそれで構わないのですが──,では本書は“日本宗教論”の書なのかといえば,必ずしもそうでもなさそうなのです。例えば,第2章では日本の仏教を扱い,第3章では神道を扱ってはいますが,第4章「スピリチュアル文化の隆盛」および第5章「世俗社会で作られる宗教」になると,どこの国の宗教の話をしているのかわからず,少なくとも日本宗教をテーマにしているとは思えない展開となっているからです。

このように,本書では考察する対象が何なのか,なぜそれを考察するのかが明瞭でなく,悪く言えば,構成展開が乱雑・粗雑の感を拭えません。

Point 2:主要概念の説明不足

著者は,宗教を信仰・実践・所属の三要素に分解して分析するとしつつも,肝心の「信仰」「実践」「所属」という三つの概念をあたかも自明のものと扱い,それらの内容を説明していないのです。さらに困ったことに,著者は,概念が必ずしも明らかでないこれら用語を組み合わせて「信仰なき実践」「信仰なき所属」「信仰なき宗教」という,これも意味が不明確な新たな概念を創出し,かつ,それらの概念説明をすることなく論を進めています。

また,本書において「信仰なき実践」「信仰なき所属」「信仰なき宗教」のように「信仰なき」という表現が繰り返されていることから,著者は「信仰がない」ことが日本人の宗教のキーポイントと考えているようですが,本書には「信仰」の概念説明がないだけでなく,「信仰がある」と「信仰がない」との境界基準──精神活動を含めどのような行動をとることが「信仰がある」といえ,どのような行動をとる(とらない)ことが「信仰がない」といえるのかを示す基準──の説明がなされていないため,いったい,なぜそれが「信仰なき実践」や「信仰なき所属」といえるのかがわからないのです。つまり,本論の核心となる部分について説明が決定的に不足しています。

Point 3:調査結果の過大評価

著者は本書においていくつかの統計データに言及し,それを論拠として用いていますが,大変失礼ながら,データの分析レベルは勉強不足のメディア従事者のそれとあまり変わりません。統計データによって示されるものが“一応の傾向性”にすぎないにもかかわらず,それを過大評価し,全体像が鮮明に抽出できたと誤解しておられます。

例えば,本書「まえがき」は「現代日本で,宗教の存在感はそれほど大きくない」という一文から始まり,ある調査で日本人の31%が確信的な無神論者であったこと,別の調査で信仰する宗教がない日本人が62%であったことが記されていますが,著者はそれらデータを鵜呑みにするだけで,深く考察することなく,「いずれの調査も,過半の日本人には信仰がないことを明らかにしている」と断定しています。

また,別の箇所で著者は5年ごとに繰り返し行われる国民性調査に言及し,「宗教についておききしたいのですが,たとえば,あなたは,何か信仰とか信心とかを持っていますか?」という質問に対して「(信仰・信心を)もっている,信じている」と答えた回答者が毎回3割程度に留まり,一方,「(信仰・信心を)もっていない,信じていない,関心がない」と答えた回答者が毎回7割程度であることから,日本人は信仰を否定していると結論づけています(pp39-40)。

これら調査で共通する点は,「神を信じるか否か」「信仰する宗教があるか否か」「信仰・信心を持つか否か」のような,いわば二律背反的な(そして,いずれもごく表面的な)二つの選択肢の一方を選ぶ“単一の質問”で構成されていることです。

著者の統計データの扱い方をみて,私(評者)は大学院生時代にデータ分析のお手伝いをした教育調査を思い出しました。当時は子どもの不登校(当初は登校拒否といわれていました)が社会問題化していた頃で,小中学生を対象とするいくつかのアンケート調査で「あなたは学校が好きですか,嫌いですか?」という問いが同じように含まれていました。アンケート調査というのは,なにがしかの質問をすればそれなりの回答が得られる仕組みになっていますので,この質問項目に関しても「学校が好き」と答えた子どもが〇〇%,「学校が嫌い」と答えた子どもが△△%という分析結果が示され,当然ながら調査報告書にも「『学校が好き』と答えた児童が〇〇%,『学校が嫌い』と答えた児童が△△%で,学校嫌いの傾向がみられた」のように記されていました。

私はこのような質問項目をみて,調査票を設計した方々の,子ども(人間)に対する見方があまりに一面的なことに驚きました。好きか嫌いかというのは人間の内面(認知的評価)の問題です。そしてそのような評価は,多くの場合,比較という脳内処理を伴うはずです。例えば「あなたはリンゴが好きですか?」と問われた場合,ひとは瞬時にイチゴ,バナナ,パイナップルなど食した経験のある果物と比較し,リンゴに関する好き・嫌いの程度を決めているはずです。しかし,子どもに「あなたは学校が好きですか,嫌いですか?」と問うことは,リンゴが好きか嫌いかを問う質問とはまったく意味が異なります。

なぜなら,子どもには「学校」以外の比較対象がないからです。子どもの生活には,基本的に家庭生活と学校生活のふたつしかなく,家庭生活はもっぱら私的なものです。子どもにとっては学校生活が唯一の公的生活なのです。比較対象のない唯一の公的生活について評価するのはそう簡単なことではないでしょう。ある子どもは,学校で経験した様々な出来事を瞬時に思い浮かべ,嬉しかった経験の印象がまさる場合は「学校が好き」と答えるのかもしれません。しかし,嫌だった経験の印象がまさる場合,必ずしも「学校が嫌い」と答えるとは限りません──子どもが自身の唯一の公的生活である学校生活を否定するのには多少なりとも勇気がいるからです。

学校が好きか嫌いかを問うことで,子どもの「学校嫌い」の程度に関する“一応の傾向性”は見いだせるかもしれませんが,不登校問題への対処に役立つ知見を得たいのであれば,このような一面的な質問をするだけでは,まったく不十分です。例えば,学校生活の中で子どもが嬉しいと思うであろう経験と,嫌と感じるはずの経験をそれぞれ複数並べ,「あなたが嬉しかったことはどれですか」「あなたが嫌と思ったことはどれですか」と複数回答してもらうなど,学校生活のどのような部分が子どもの肯定的感情につながりやすく,逆にどのような部分を子どもはストレスフルと感じるのかなどを問うべきなのです。多面的・多層的で複雑な問題を,たったひとつの質問で分析できるはずがないのです。

本書に戻ると,著者が言及した統計調査も基本的にこれと同じです。調査結果は日本人の宗教観に関する“一応の傾向性”を示してはいますが,信仰は人間の内面に深くかかわる問題で,多面的・多層的で複雑なものです。素人レベルのメディア従事者であればともかく,宗教学研究者であるならば,この調査結果は最終結論などではなく,研究の出発点にすぎないはずです。なぜそのような傾向性が表れるのかを深めることこそ,研究者に期待される役割ではないでしょうか。

実際,著者自ら記しているように,上述の国民性調査では,視点を少し変えた「いままでの宗教にはかかわりなく,『宗教的な心』というものを,大切だと思いますか,それとも大切だとは思いませんか?」という質問項目が続き,それに対して7割から8割の回答者が「宗教的な心は大切だ」と回答したとのことです。サンプルが日本人全体を代表していると仮定すると,日本人の大多数が「宗教的な心は大切だ」と考えていることになり,これは日本人の宗教観の大きな特徴のひとつといえるはずです。著者はこの結果を,日本人の中では「宗教が気分や情緒に関わる実践として重視されている」とするだけで,それ以上の分析を加えていませんが,評者には,これは日本人と宗教の関係を考える上で大変重要な手がかりになると思えます。

Point 4:信仰の成立条件

先に指摘したように,本書には「信仰」の概念説明や,どのような状況にあるとき「信仰がない」といえるのか(あるいは「信仰がある」といえるのか)の説明がありません。したがって,著者の信仰観──信仰をどのようなものととらえているのか──が非情にわかりにくくなっています。ただし,著者の信仰観をうかがい知ることのできる記述がいくつかあります。

ひとつは,先に触れた国民性調査に関する記述(pp39-40)で,著者は,「信仰・信心をもっている」という回答を“信仰がある”とみなし,一方で「宗教的な心は大切だ」という回答は「気分や情緒に関わる実践」にすぎず,“信仰”とはみなしていません。

そこからいえることは,著者にとっては,信仰とはすなわち,その宗教(あるいは崇めるべき対象)が真ないし善であるという確信(belief)とほぼ同義なのだろうということです。ある宗教(神・仏)を信じているという確信がある場合にのみ,その人には信仰があることになり,そのような確信がなければ,その人には信仰がないということになります。宗教的な心を大切なものと考えていても,それは宗教を信ずる確信とはいえないので,多くの日本人には「信仰がない」という結論になるようです。

では,宗教的確信があれば信仰なのかというと,著者の考えでは,どうもそれだけでは十分でないようなのです。いうなれば,“仏を信じているだけでは信仰とはいえない”と著者は考えているようなのです。それは,第2章「仏教の現代的役割」の中にある「信仰とは別の広がり」と「死者供養を支えるイメージ」の項の記述(pp68-71)によく表れています。この部分で著者は,曹洞宗・浄土真宗・浄土宗各派が自宗の門徒に対して行った調査の結果を紹介し,いずれの宗派でも,先祖供養に関連する行事への参加率は高いものの,教義の理解度は低いことを指摘しています。そして著者は,そのような仏教の現状を「信仰とは結びつかない観念や実践の広がり」がみられると結論づけています。すなわち,いかに仏を信じようとも,宗派の教義を理解しない限り,どのような実践も「信仰」とならないと著者は考えているようなのです。

これらふたつの点に鑑みると,著者にとって「信仰」とは,“その宗教の教義をよく理解し,かつ,それを信じて疑わない確信があること”なのであろうと思います──おそらく,キリスト教文化的な意味での信仰の概念に近いようです。すなわち,教義に対する理解と教義に対する確信のふたつが「信仰」の成立条件・必要条件と思われます。しかし,もしそうであるなら,そのような著者の基本スタンスを本論の冒頭で明確に説明すべきでしょう。その説明をせずにひたすら「日本の宗教には信仰がない」と繰り返しているので,本論が“要領を得ない”ものとなっているのです。

しかし,逆説的ではありますが,著者の基本スタンスをこのように理解したときに初めて,著者が本書の正に冒頭(まえがき)で,十分な考察をすることなく,“過半の日本人には信仰がないことは明らか”と決めつけていることに合点がいきます。なぜなら,神道には教義がありませんので,教義に対する理解や確信といったものが成立する余地はありませんし,仏教には教義経典がありますが,ほとんどの日本人は中国語経典を理解できませんので,教義の理解度が低いことは当然の帰結だからです。つまり,著者の信仰観によれば,そもそも日本で信仰が成立する余地は限りなく小さいということです。ただ,そうなると,日本の宗教を信仰・実践・所属の三要素に分解して考察するという著者のもくろみは,あまり意味がないことになります──そもそも日本の宗教には「信仰」要素がないのですから,実践と所属という二要素分解で十分なような気がします。

Point 5:「要素」という語の妥当性

上記の点とも関連しますが,本書が“要領が得ない”ものとなっている原因のひとつは,「要素」という語にあります。広辞苑によれば,要素とは「事物の成立・効力などに必要不可欠な根本的条件,エレメント」とあり,「宗教を信仰・実践・所属の三要素に分解する」ということはすなわち,信仰・実践・所属は宗教の成立に必須の構成要件で,基本的にどの宗教にも信仰・実践・所属があると考えられます。ところが,筆者は日本の神道・仏教には信仰がないとするのですから,そうなると,神道・仏教は“宗教ではない”ということになります。これでは現実とあまりにそぐわず,また著者もそうは考えていないでしょう。

おそらくですが,著者がいわんとすることは,「宗教には信仰・実践・所属という三つの“側面”があり,伝統的キリスト教ではそれらがバランスよく並置されているが,日本の宗教では信仰の側面が脆弱で,仏教では実践の側面が,神道では所属の側面が顕著である」というようなものなのではないかと推測できます。もしこのような“推測”が的外れでないのなら,日本の宗教ではなぜ信仰の側面が脆弱なのかを──単に先祖供養の行事参加が多いなどの現象を指摘するだけでなく,その背後要因を含めて──丁寧に説明し,次いで実践と所属について説明するという構成にしていただいた方が,ずっとわかりやすくなったでしょう。

丁寧な説明をすることなく,「信仰なき実践」とか「信仰なき所属」のような“きらびやかなキャッチフレーズ”を多用したために,そのきらびやかさに目を奪われ,議論の筋道が粗雑になったような気がします。

なお,「信仰なき実践」とか「信仰なき所属」というのは教義理解と教義への確信を「信仰」の成立条件とした場合にのみいえることです。そのような考え方はもっぱらキリスト教的宗教理解から生じているように思えます。日本の宗教にこれをそのまま当てはめられるのでしょうか。

Point 6:データの誤解

些細な点ですが,著者のデータ解釈に誤りがありますので,記しておきます。

本書序章p3に「第2章で詳しく見るように,天国や地獄,唯一神や阿弥陀仏の実在を信じる日本人はわずかである」という記述があります。それを示す統計データがあるのであれば,評者自身,大変興味があることなので,第2章をつぶさに読んでみたのですが,それらしきデータがないのです。第2章p51に「後述のように,現代日本で死者が極楽浄土や地獄に行くと信じている人や,生まれ変わり(輪廻転生)を信じる人は少数だ」とあり,またp76に「なぜ地獄も浄土も信じないのに戒名をもらい,僧侶を導師にして葬式を行うのか。それは,死者を送る作法として,葬式仏教を利用するのが便利だからだろう」とありますので,評者が求めるデータはp51からp76の間に記されているはずですが,ないのです。

この部分には,さきほど書評で触れた,曹洞宗,浄土真宗,浄土宗各派が自宗の門徒に対して行った各種調査の結果が示されており,確かに,著者がいうように,門徒の先祖供養の行事参加率は高いが教義概念の理解度は低いという数値は示されています。しかし,この部分に「天国や地獄,唯一神や阿弥陀仏の実在を信じる日本人はわずか」とか,「死者が極楽浄土や地獄に行くと信じている人や,生まれ変わり(輪廻転生)を信じる人は少数」であることを示す数値はありません──天国,地獄,唯一神,阿弥陀仏,輪廻などは,その言葉すら出てきません。著者が何か勘違いされたようですが,統計データを論拠として用いるときには,その数値が何を示しているのか,厳密な解釈が求められることはいうまでもありません。

うがった見方をすると,著者ご自身が,阿弥陀仏,極楽浄土,地獄など信じられるはずがないと思い込まれており,それが統計データの見方を歪めているのかもしれません。そう考える理由は,著者は本書序章につぎのように記しているからです。

多くの宗教は非科学的な世界観に依拠し,合理性に欠けると言わざるをえない。祖先の霊が心身の不調を癒す,救世主が死後三日経って復活した,56億年後に救い主が降臨するといった観念は,いずれも現代の常識からすれば荒唐無稽である。(p3)

宗教を非科学的・非合理的であるとか,荒唐無稽と思う人々が一定数いることは想像に難くないのですが,宗教学の専門家の方からこのような,あからさまな言葉を見聞きしたのは,評者にとっては本書が初めてです。物事を突き詰めて考える必要は特にない一般人であればともかく,まさにそれを生業とする研究者であれば,宗教が本当に非科学的・非合理的であるかどうかは即断できる問題ではないはずです。

そもそも「合理的」とか「非合理的」というのは相対的なものです。所属する集団内で多数の者が「もっともだ」と考えれば,それは合理的といわれます。例えば,国家主義の下では,個人の意思を無視してでも国策に沿った行動を取ることが合理的とされます。同様に,「科学的」とか「非科学的」というのも,あくまで“現状の科学水準に照らせば”という条件つきです。科学水準がもっと高まれば輪廻のメカニズムが解明されるかもしれません。

一般向けの宗教学の書で大事なことは,例えば「輪廻は現在の科学技術では証明されていない」など,事実に基づいた説明をすることかと思います。著者ご自身は宗教を「荒唐無稽」とは考えておられないと思いますが,このような表現をしてしまうと,宗教学の専門家も宗教が非科学的とか,非合理的とか,荒唐無稽と認めていると,思わぬ誤解を生ずる怖れがあります。

書評としては以上です。なお,本書第4章と第5章についてですが,評者はあまり内容に興味を感じなかったことと,第3章までの本論との関係がよくわからなかったことから,失礼ながらこれらの部分は読み飛ばしました。

最後に,これは本書(中公新書)編集部の方々だけでなく,いわゆる新書の編集に携わるすべての編集者の方々へのお願いです。新書は基本的に一般読者向けの書籍であり,高度の専門書とは一線を画す書籍です。そして,私がこの書評で指摘した問題点は,編集者が本書原稿を丁寧によめば,いずれも気づく程度のものばかりです。編集者が気づき著者が修正を加えれば,本書はずっとよいものになったことでしょう。

日本の新書文化は,比較的専門性が高く,かつ読みやすい書を廉価な価格で一般人に提供するという点で,世界に誇るべき文化だと思います。その文化を維持発展させるためにも,新書編集に携わる方々におかれましては,ご多忙とは推察いたしますが,どうかこの程度の問題点に気づく知性──想定読者のそれよりも少し高い知性──と,著者に必要な修正を求める勇気をお持ちいただきたいと,これは切に願っています。

*初稿2023/03/24

書評:宗教と日本人 葬式仏教からスピリチュアル文化まで

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