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  • 日本の新書文化:知へのアクセス
    Vincent A.
    Editor-in-chief of Japoinsm.media
    2018/06/01

    このサイトの文献レビューでは,当面,岩波新書や中公新書などのいわゆる新書本を取り上げる予定ですが,多数の出版社から様々な教養書が廉価な新書(叢書)として発刊されている状況やその意義を,実は日本の方々はあまり認識していないようです。新書をレビュー対象とするにあたり,日本の新書文化について「知へのアクセス」という観点から少し記しておきたいと思います。

    日本の状況

    日本では現在,多数の出版社から新書とよばれる小型の叢書が出版されています。その多くは,岩波新書に代表されるように「現代人の現代的教養」(岩波新書創刊の辞)の涵養を目的としており,出版社ごとに多少の毛色の違いはあるものの,各分野の専門家が専門的な見地から一般人向けに起稿したオリジナルの情報を発信しています。日本のように廉価で入手しやすい教養書が多くの出版社から叢書としてシリーズ発行されている国は,私が知る限り珍しいと思います。岩波新書が創刊時にモデルとした英国のPelican Booksは高価なハードカバー書の廉価版(paperback)として刊行されたもので,いったん廃刊となり,後に復刊しましたが,その英国でも,他の多くの出版社が類似の叢書を発刊するまでには至っていないようです。

    日本では岩波新書の創刊が1938年で,その後1950年代になって多くの新書が創刊され,以後,多数の出版社が教養書を新書(叢書)という形で出版し続けています。したがって,日本では,教養書を新書という形で刊行する独自の「文化」がすでに十分定着しているとみてよいでしょう。

    カナダの状況

    私の専門は教育(教育社会学・教育心理学)で,日本とカナダの二カ所を拠点に活動していますが,カナダには残念ながら日本のような新書文化がありません。つまり,日本のように教養書が廉価に入手できる環境がないのです。専門書は非常に高価で,感覚的には日本の倍ほどの値がします。したがって,一般書店には専門書があまり置かれていません。

    ちなみに,カナダの書店は日本の書店と比べると非常に“浪漫的”な点が特徴です。店内が美しく優雅に飾られていて,文学系・フィクション系の書籍が充実しています。歴史や心理系の本もありますが,いわゆる歴史読み物とかサイコセラピー療法的なものが中心で,専門書とはやや異なります。ただ,政治社会的なトピックを扱った,いわゆる新刊本は書店にも多く並べられていますが,その種の本は分厚く値が張ります。

    したがって,カナダで一般人が多少なりとも専門的な書を読みたいときは,大学図書館で閲覧するか,大学構内にある書店で専門書を購入するしかありません(地域の公立図書館には専門書がほとんどありません)。カナダの大学は基本的に公立(州立)大学で,大学図書館は地域住民にも開放されているのですが,不慣れな住民にとって大学図書館はやや敷居が高いことと,大学の数が少ないため,実質的には利用者が限られています。

    カナダの状況は隣国のアメリカでもほぼ同様です。ですから,北米の書籍文化は一般人が知に容易にアクセスできる環境を構築しているとはいい難い状況にあります。換言すれば,北米に住む人々は,専門家でないかぎり“書籍から知識を得る”ということを現実的にはあまり経験せずに暮らしていることになります。

    それに対して日本の新書文化は,専門性の高さ・深さに限度があるとしても,それぞれ700円~800円程度の少額の出費で一般人が知にアクセスすることを可能ならしめていますので,大変に優れた文化ということができるでしょう。このような新書文化の価値──ありがたさ──は,それがない異国で暮らしてみないとなかなかわからないかもしれません。日本人は大変に恵まれているといってよいでしょう。

    情報源

    現在,大多数の日本人は小中高の12年間,学校教育を受けますので,ほとんどの人にとって教育は非常に身近なものといえます。ところが,大学で教えているとよくわかるのですが,高校を出て間もない若年の学生も,社会経験を積んだ後に入学してくる社会人学生も,おしなべて教育についての知識は非常に乏しいのです。そして,彼らがもっている教育に関するわずかな知識の大半は,テレビ・新聞などのマスメディア報道から得られたものです。問題は,このメディア報道が少なくとも教育に関するかぎり,的はずれのものばかりという点なのです。

    その原因は,教育がもつ複合的な構造と,それとは相容れ難いメディアの報道姿勢にあります。

    教育は本来的に二律背反的な対立構造を内包した営みであり社会制度なのです。たとえば,受験生が有名校に殺到する学歴主義がよく批判されます。確かに,学歴主義は偏差値重視の受験競争を生みやすいのですが,その一方で,学歴主義社会というのは,努力をすれば誰でもより上位・上級の学校に進学でき,卒業後は結果として,より専門的で高賃金の職に就ける社会を意味します。これは,親の所属階層によって子どもの成人後の所属階層が決まる身分制社会よりも大変にすぐれた近代的社会制度といえます。また,偏差値も集団内における個人の相対的到達度を測定するには非常に有効な手法なのです。

    しかしながら,問題はさらに複雑です。文化的再生産としてよく知られるように,子どもの学業成績は本人の努力によるだけではなく,家庭環境,特に親がもつ文化的素養や経済資産の影響を大きく受け,豊かな文化資産をもつ家庭の子どもの方がよい学業成績を修めやすいという社会的事実も一方で存在するからです。つまり,完全に公平な学歴社会は,少なくとも現在のところ実現していないともいえるのです。

    ここで私たちが留意しなければならない点は,偏差値重視の受験競争にしても,文化的再生産という不平等状態の次世代再現にしても,それぞれ,教育という営みを粛々と続けた結果として生まれるものだということです。これらの弊害や不平等は,学校教育において大勢の人間が学習目標に向かって努力した結果,あるいはそれぞれ家庭において親たちが子どもを一生懸命育てようとした結果,いわば必然的に生じてくる結果なのです。したがって,マスメディア流に,誰が悪い,何が悪いという「悪者探し」をしてみても,それは弊害といわれる問題の表面をなぞるだけで,問題の本質には決して迫れないのです。大事なことは,問題を複眼的・複層的な視点からとらえ,関連するいくつもの要素をどのようにバランスさせて弊害を少しでも軽減するかということなのです。

    メディアは基本的に『叩きやすいところから叩く』のが取材・報道の鉄則です。しかし,そのようなメディアの姿勢は複合的構造をもつ教育問題の分析には本質的にふさわしくないのです。それにもかかわらず,学生たちは基本的にメディア報道を鵜呑みにしますので,彼らの教育理解はとても歪んだものになってしまうのです。

    メディア報道に流されない視点をもって問題の本質をみきわめるためには,ある程度の専門性が確保された新書から知識を得ておくことが大変有効であろうと思います。そしてそのためには,新書のなかでも良質の書を選ぶことが大事であろうと思います。

    *初稿2016/09/17,更新2018/06/01
    *本稿はdiscoverjaponism.comに掲載されていた同名記事に一部修正を加えたものです。

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