【書名】教育格差──階層・地域・学歴 【著者】松岡亮二 【発行】筑摩書房(ちくま新書) 【目次】第1章 終わらない教育格差:1親の学歴と子の学歴,2出身地域による学歴格差,3意識格差─「大衆教育社会」から「階層化社会」へ,4階層と「不利な状況」の打破,5時代を超えて確認される格差構造;第2章 幼児教育─目に見えにくい格差のはじまり:1これまでにわかっていること,2異なる子育てロジック;第3章 小学校─不十分な格差縮小機能:1子育ての階層格差(個人水準の格差),2学校・地域の格差(集合水準の格差);第4章 中学校─「選抜」前夜の教育格差:1階層格差(個人水準の格差),2学校・地域の格差(集合水準の格差);第5章 高校─間接的に「生まれ」で隔離する制度:1「能力」による生徒の分離─学校間のSES格差,2制度的に拡大された教育「環境」の学校間格差;第6章 凡庸な教育格差社会─国際比較で浮かび上がる日本の特徴:1すべての社会に格差は存在する,2義務教育の「答え合わせ」,3「効率」を追求する高校教育制度;第7章 わたしたちはどのような社会を生きたいのか:1建設的な議論のための4ヵ条,2〈提案1〉分析可能なデータを収集する,3〈提案2〉教職課程で「教育格差」を必修に,4総括─未踏の領域 【Tags】松岡亮二,教育社会学,教育格差,学力格差,学歴格差,学校間格差,地域格差,階層格差,階層,社会経済的地位(SES),文化資本,再生産,経験蓄積格差,通塾率,SSM(社会階層と社会移動に関する全国調査),SSP(階層と社会意識全国調査),TIMSS(国際数学・理科教育動向調査)
【評価】C 【評者】Vincent A. 【書評】本書は教育格差という問題を教育社会学的に論じた書ですが,気がかりな点が多く,恣意的・差別的と批判されてもしかるべきかと思います。著者が気づかなくても編集段階で気づけば,修正する手立てはいくらもあったはずですが,編集者は本書の内容を十分理解できなかったのか,あるいは,気づいても著者を説得できなかったのかもしれません。本書でまず気になるのが,冒頭の「はじめに」に記された次の一節です。
こんな現実の中で教育社会学の研究者である私にできることは,入手可能な質の高い様々な調査データを理論と先行研究に基づいて分析し論文にすることだ。そう信じてアメリカ合衆国で博士号を取得後,2012~19年の間に国内外の学術誌で20編の査読付き論文を発表してきた。ただ,これだけではいつまで経っても物事は変わりそうにない。そもそも16編は英字論文であるし,同業である研究者向けに書いているので,一般のみなさんに届くわけもない。そこで,過大評価も過小評価もせずに現時点でわかっている教育格差の全体像を一人でも多くのみなさんと共有することで,既視感だらけの教育論議を次の段階に引き上げることができればと本書を執筆することにした。(p17)
ここで「査読付き論文」というのは学術団体などが発行する学術誌・専門誌に掲載された論文で,一定の権威ある査読者が論文原稿を審査したうえで学術的価値ありとして掲載が認められたものです。他方,論文にはそのような審査を受けずに発表される「査読なしの論文」もあり,大学などが発行する紀要の掲載論文がその一例ですが,査読を経ていないため研究業績としては査読付き論文よりも低いとみなされます。
著者は博士号という最高位の学歴を獲得し,さらに,わずか7~8年の間に査読付き論文を20編も発表したとのことですから,著者がきわめて優秀な頭脳と研究者として並外れた業績をお持ちの方であることがわかります。しかしながら,本書の本論で教育格差,例えば親の学歴が低いと子どもの学力が低くなる傾向があるなど,親の学歴が影響しているであろう問題を論じようとする矢先に,なぜ著者は自身が最高位の学歴とずば抜けた研究業績を持つことをこのように強調するのでしょうか。
おそらく,著者はご自身の知的優越性を深く認識しておられるのだろうと思います。そのことは,研究業績に関する記述に続く一文「既視感だらけの教育論議を次の段階に引き上げることができればと」という“私が教えてあげるから”といわんばかりの執筆動機の表現にも表れているように思います。そもそも新書という出版形態には,専門家がその分野で培ってきた専門知を一般人にわかりやすく伝える役割がありますので,このような執筆動機など言わずもがななのです。
ここで私(評者)が疑問に思うことは,著者はいったい何のために「教育格差」という書を著したのか,いったいどのような人が本書を読むと想定しているのか,ということなのです。
著者が本書を著したのは,日本の社会に様々な教育格差があることを多くの方たちに伝えたいからであろうと思います。しかし,冒頭で著者自身が最高位の学歴と格段に優れた知的能力をもつことを誇らしげに語ってしまえば,高学歴の大卒読者からは支持されるとしても,高卒・中卒の方たちの共感を得ることは難しいでしょう。それとも,高卒・中卒の方が本書を読むはずがないとでも,著者は考えたのでしょうか。もし,著者がもっぱら大卒読者向けに本書を著したのだとすると,高学歴読者にのみ向けて教育格差を説くことに,どのような意味があるのでしょう。そしてそれは本当に高学歴読者の知識を深めることになるのでしょうか。
教育格差は,高卒・中卒の方々を含む幅広い層の人々に認識してもらうべき問題であるように思います。そして,そうであるならば,特定の層の人々の嫌悪感をいたずらに惹起するような論調は慎むべきと思います。
さて,本書が恣意的・差別的と思われる点を具体的に説明します。事の性質上,説明が少し細かく専門的になりますが,ご容赦ください。
著者は第2章「幼児教育」で「意図的養育」と「放任的養育」という,米国研究者による親の養育態度に関する研究を紹介しています。意図的養育というのは米国の中流家庭にみられるもので,「子供の能力はただ放っておいても開花しない,意図的・計画的な介入があってこそ子供の能力を伸ばせるという信念に基づいた」養育態度をいい,「親は子供の生活に意図的な介入を行うことで望ましい行動,態度,技術などを形成しようとする」とのことです。他方の放任的養育というのは,労働者階級・貧困層の家庭にみられるもので,「『放っておいても子供は育つ』という信念に基づいた子育てスタイル」をいい,この階級・階層の親たちは「大人の意図的な介入がなくても子供は育つと考える」とのことです。
ここで注意すべき点は,この意図的養育と放任的養育という語は互いに異なる特質をもつ二者択一のカテゴリー名だということです。すなわち,意図性が強い・弱いとか,放任性が強い・弱いといったような強度を表す軸が設定されているわけではなく,単に,中流家庭の養育はすべからく意図的養育であり,労働者階級・貧困層の家庭の養育はすべからく放任的養育とされているに過ぎません。
親の養育態度には,実際には,例えば権威的とか応答的のような異なる相が混在していますので,それぞれ強度を表す二軸を直交させて4象限チャートを作成し,「権威的でもあるが応答的でもある」などの傾向を読み取るとか,多軸を合成したレーダーチャートを作成して親の態度特性を読み取るなどの方法を採ることが多く,この米国研究のように意図的養育か放任的養育かの二者択一とするのはなんとも乱暴な話で,多少,差別性も感じます。
それはひとまず置くとして,問題は,第一に,本書著者がこの意図的養育と放任的養育というカテゴリー分けを日本の親たちの子育てに適用し,親が高学歴の家庭の子育ては意図的養育で,親が低学歴の家庭の子育ては放任的養育であるとみなしていること,第二に,高学歴の親の利用率が高い幼稚園の利用は意図的養育で,低学歴の親の利用率が高い保育所(託児所を含む)の利用は放任的養育であるとみなしていることです。
説明の都合上,第二の点である幼稚園・保育所の利用と養育態度の関係から先に説明します。著者は統計資料の分析にあたり,親の学歴を3群,すなわち,両親とも大卒の群(両親大卒群),両親の一方が大卒で他方が高卒または中卒の群(片親大卒群),両親とも高卒または中卒の群(両親非大卒群)の3群に分けています。そして親の学歴群別の幼稚園利用率と保育所利用率を比較し,両親大卒群の利用率が高い幼稚園の利用は「小学校に上がる前に集団で学ぶ準備をする」という意味で意図的養育であるとしています。対照的に,保育所は片親大卒群・両親非大卒群の利用率が高いのですが,保育所は「小学校に上がる前に集団で学ぶ準備をする」ものではないので,著者の考えによれば放任的養育ということになります。
しかしながら,著者のこのような考え方は日本の現実とまったく一致していません。上述のように,著者は放任的養育を「『放っておいても子供は育つ』という信念に基づいた子育てスタイル」と定義しています。しかし,少なくとも日本の保育所は,基本的に,両親共働き家庭や片親家庭において親が労働に従事する間に保護機能に欠ける子どもを保護するための児童福祉施設なのです。利用者のなかには,幼稚園と保育所のどちらを選ぶべきか考えた末に保育所の方が良いとして保育所利用を選択した親もいるかもしれませんが,大多数は,保育所の他に選択肢がない親なのです。放任的養育を「『放っておいても子供は育つ』という信念に基づいた子育てスタイル」とするなら,保育所利用は放任的養育とはとてもいえません。つまり,放任的養育というカテゴリーの設定自体が日本の親たちの養育態度の分析になじまないのです。著者の分析は一見緻密なようにみえて,実際は相当に粗雑と言わざるを得ません。
つぎに,第一の点である親の学歴と養育態度の関係について説明します。著者は養育態度に関する質問への回答結果を親の学歴群別に集計して比較していますが,著者の分析には明らかな矛盾があります。著者が示す統計データの一部を改めて評者が表にまとめました。表1は本書の表2-6の一部から評者が再作成したもので,本書を読まなくても意味が通じるように項目名を一部修正してあります。
表1
親学歴群 | 番組内容によりTVを 見せないようにしている | TVを連続して長時間 見せないようにしている | 食事中はTVを 見せないようにしている |
両親非大卒 | 62% | 68% | 23% |
片親大卒 | 73% | 75% | 31% |
両親大卒 | 81% | 81% | 40% |
表1は5歳児半の子どものテレビ視聴を親がどのように規制しているかを質問した回答結果で,視聴を規制することが意図的養育という前提での分析結果です。表をみると,いずれの項目でも親の学歴が高いほどテレビ視聴を規制する親の割合が高くなっています。この結果から,著者は高学歴の親は意図的養育を実践し,低学歴の親は(意図的養育ではない)放任的養育を実践しているとみなしています。
ところが表1をよくみると,「番組内容によりTVを見せないようにしている」親は,両親非大卒群でも6割と過半数におよび,片親大卒群では7割強もいます。つぎの「TVを連続して見せないようにしている」親は,両親非大卒群では7割に近く,片親大卒群では7割半もいます。いずれも,明らかに多数派を占めていますので,これら2項目が意図的養育を示すのであれば,両親非大卒群と片親大卒群の親たちは,過半数もしくは大半が意図的養育を実践していることになります。
他方,「食事中はTVを見せないようにしている」に関して,これを実践しているのは両親大卒群でも4割で,半数に満たないのです。両親非大卒群が2割,片親大卒群が3割ですから,値は低いといえば低いのですが,両親大卒群でも半数に満たないのですから,この項目に関して両親大卒群のみが意図的養育を実践しているとはとてもいえません。
つぎに表2をご覧ください。表2は本書の表2-6の一部と表2-4の一部から評者が再作成したもので,表1と同様に項目名を一部修正してあります。
表2
親学歴群 | 母親が本・絵本の 読み聞かせをよくする | 子どもが悪い事をしたとき 理由を説明する | 子どもが悪い事をしたとき 理由を説明せずに叱らない |
両親非大卒 | 28% | 79% | 10% |
片親大卒 | 36% | 84% | 13% |
両親大卒 | 47% | 88% | 15% |
表2の最初の項目「母親が本・絵本の読み聞かせをよくする」は,表1と同じく5歳児半の子どもの親への質問です。著者は本・絵本の読み聞かせを,子どもに語彙を獲得するよう促すという意味で意図的養育とみなしているようです。数値をみると,確かに親の学歴が高いほど割合が高いのですが,実際は,両親大卒群であっても割合は半分以下です。つまり,両親大卒群でも半数以上は本・絵本の読み聞かせをさほどしていないことがわかります。学歴の高い両親大卒群でも,半数以上が放任的養育を実践しているということになります。
つぎの2番目と3番目の項目は,子どもが3歳半の親に対する質問で,子どもが何か悪い事をしたときのしつけの仕方に関するものです。「子どもが悪い事をしたとき理由を説明する」は,言語による論理的な思考を育てるという意味で著者は意図的養育とみなしているようです。両親大卒群では9割近い親がこれを実践していますが,両親非大卒群でも8割,片親大卒群では8割半いますので,学歴が低い親たちの大半が意図的養育を実践していることになります。
また,「子どもが悪い事をしたとき理由を説明せずに叱らない」については,両親非大卒群,片親非大卒群,両親大卒群のいずれの群でも回答者割合が1割~1割半に留まっており,大多数の親は「理由を説明せずに叱ることもある」という結果です。「理由を説明せずに叱ることもある」を放任的養育とみなすならば,両親大卒群の大半は放任的養育を実践していることになります。
このようにみてくると,高学歴の親の子育ては意図的養育で,低学歴の親の子育ては放任的養育であるという著者の結論は根拠が非常に怪しいことがわかります。表1と表2の数字には親の学歴群ごとに変化がありますので,親の学歴によって子育ての仕方に多少の違いがあるであろうことは想像できます。ただし,それは著者がいうような,高学歴の親の子育ては意図的養育で低学歴の親の子育ては放任的養育というように簡単に対比できるものではなさそうです。
表をもうひとつご覧ください。つぎの表3は,本書の表2-7の一部から評者が再作成したもので,前掲の表1・表2と同様に項目名を修正してあります。
表3
親学歴群 | 落ち着いて話を聞く | ひとつのことに集中する | 疑問に思うことを 親によく質問する |
両親非大卒 | 79% | 84% | 68% |
片親大卒 | 83% | 89% | 71% |
両親大卒 | 87% | 91% | 74% |
表3は5歳半の子どもの親に子どもの発達状況を尋ねた質問に対する回答結果です。ここで大事なことは,表3には,著者の考え方によればですが,子どもたちが高学歴家庭では意図的養育を,また低学歴家庭では放任的養育をそれぞれ5年半受けて成長してきた結果が示されているということです。換言すれば,表3は5年半におよぶ意図的養育と放任的養育の教育効果の違いを示したものということになります。
表3において,「落ち着いて話を聞く」「ひとつのことに集中する」の2項目で,低学歴の親の子どもよりも高学歴の親の子どもの方が割合が大きくなっています。しかし,よくみると,両親非大卒群と片親大卒群のいずれも8割の子どもが「落ち着いて話を聞く」ことができ,さらに「ひとつのことに集中する」に関しては,両親非大卒群で8割強,片親大卒群で9割の子どもが集中できるとなっています。これらの割合は両親大卒群の9割とほぼ互角です。つまり,低学歴の親に育てられた子どもたちも,大多数が「落ち着いて話を聞く」こと,「ひとつのことに集中する」ことができるということです。
表3の最後の項目「疑問に思うことを親によく質問する」に関して,低学歴の親の子どもよりも高学歴の親の子どもの割合が高く,著者は,意図的養育では「日常的な親子の会話の中で疑問を発することが奨励されている」ことがこの結果に反映されていると述べています。しかし,はたしてそうでしょうか。実際は,低学歴とされる両親非大卒群・片親大卒群において,子どもの割合は7割で,かなり高いのです。そしてこの割合は,高学歴とされる両親大卒群の子どもの割合が7割強であることと比べて,決して遜色ありません。
すなわち,表3が全体として何を示しているのかというと,著者がいうところの意図的養育と放任的養育を5年半受けて成長してきた子どもたちには,「落ち着いて話を聞く」「ひとつのことに集中する」「疑問に思うことを親によく質問する」の3項目の発達段階に関して決定的な違いはみられないということなのです。
以上に説明したように,保育所の制度趣旨からすると,幼稚園利用が意図的養育で保育所利用が放任的養育であるという著者の指摘は妥当でありませんし,表1~表3(データは著者が示したもの)でみたように,高学歴の親の子育ては意図的養育で低学歴の親の子育ては放任的養育であるとする著者の分析は合理的根拠を欠くと言わざるを得ません。それにもかかわらず,著者はなぜこのような恣意的・差別的な結論を導いているのでしょうか。
おそらく,それは著者のなかに高学歴の親の子育ては優れていて,他方,低学歴の親の子育ては劣っているというステレオタイプがあるからであろうと評者は考えます。そしてそのステレオタイプは,この書評の冒頭で指摘したように,自らの学歴や研究業績に対する著者自身の強い自負に支えられているように思います。
著者は多数の統計資料を駆使して様々な教育格差を論じています。統計資料の使用は簡便である反面,データ分析やその解釈に少しでも齟齬があると,論述全体の信頼性が損なわれるという危うさがあります。評者は第3章「小学校」以降のデータを細かくみておりませんが,他に恣意的解釈がなされていないか注意してみる必要性は感じています。
では最後に,格差研究に関する評者自身の希望をふたつ述べて書評を終えたいと思います。
まず,格差研究という名のもとに,格差の解消・縮小を望むことなく,格差の存在を実証することだけに喜びを見いだすような研究はやめていただきたいと切に思います。親の学歴や家庭の経済状態・文化水準などの環境要因によって子どもの学業成績が大きく影響されることは,評者が教育社会学を学び始めた1990年代にはすでに知られており,教育という仕組み自体にそのような格差を生む(再生産する)働きがあると考えるウェーバーの文化的再生産の概念まで遡れば,時期は1970年代です。ウェーバーから半世紀,1990年代から起算して30年経過してもなお,格差研究は,なぜ親が高学歴の家庭の子どもは親が低学歴の家庭の子どもよりも高得点が取れる(取りやすい)のか,逆に,なぜ親が低学歴の家庭の子どもは親が高学歴の家庭の子どものように高得点が取れない(取りにくい)のか,という学力格差が生まれる基本的な道筋すら説明できていないのです。
1990年代以降,教育社会学では社会階層による学校文化への親和性の違いが指摘されていたように記憶しています。学校という教育機関には独特の学校文化──しきたり,手順,基準,考え方など──があり,高所得層の暮らし方は学校文化に比較的親和的なため,子どもは学校文化に適応しやすいが,低所得層の暮らし方は学校文化にそれほど親和的でないため,子どもは学校文化に適応しにくいというようなものであったかと思います。しかし,これで学力格差が生まれる基本的な道筋が解明できたとはとても思えません。
本書の著者も,家庭の蔵書数など,学力に影響しそうな付帯的な中間変数をいくつも挙げていますが,いずれも子どもの学力にそれがどう影響するのかを具体的に説明できていません。親の学歴と子どもの学習努力量(=学習時間の長さ)の関係の分析(本書p132)に至っては,失望すら覚えます。著者は,学習の質・内容や勉強への取り組み方などの点を一切無視し,高学歴家庭ではひたすら子どもを長時間勉強させていると読み得るようなデータを示して教育格差を説明できたと考えているようですが,これは一昔前にメディアで散々批判された「教育ママ」の姿そのものです。メデイアの論調がすべて正しかったとは思いませんが,せめて「教育ママ的な子育てが望ましい」と誤解されないような研究をしていただきたいと思います。
そしてもうひとつ。学力(学業成績)を唯一の評価基準として子どもを評価するようなことも,そろそろやめていただきたいと思います。子どもは大人と同様に,創造性,独創性,感受性,共感性,寛容性,正義感,リーダーシップ,芸術的感性,音楽性,等々,実に多様な特性をもっています。そして学校教育は学力の向上のみを目指した営みではないはずです。子どもの特性がこのように多様であるのに,格差研究はいつまで学力のみを問題とするのでしょう。それとも,子どもの多様な特性がすべて,学力と同じように親の学歴,社会的地位,経済力などの影響を受けるというのでしょうか。
もし将来的に,例えば子どもの創造性が親の学歴とは無関係であることが学術的に証明できたとすれば,それは高卒・中卒の親たちにとってどれほど救いとなることでしょう。格差があることを明らかにすることだけが格差研究の意義ではないはずです。半世紀前にウェーバーが指摘した,子どもの発達に対する親の文化資産の影響を本気で考察したいのであれば,ぜひとも,子どもの多様な特性を格差研究の対象としていただきたいと思います。
*初稿2020/11/10