【書名】神社の起源と古代朝鮮
【著者】岡谷公二
【発行】平凡社(平凡社新書)
【目次】第一章 近江への旅:白鬚(しらひげ)神社へ,豪族三尾(みお)氏と継体(けいたい)天皇,鉄と渡来人,余呉(よご)の羽衣(はごろも)伝説,新羅(しらぎ)の影,豪族息長(おきなが)氏の地にて,園城寺と新羅善神堂(しんらぜんじんどう),天日槍(あめのひぼこ)の痕跡,神社信仰の成り立ち;第二章 天日槍の問題:渡来をめぐる問い,天日槍とは誰か,神宝から分かること,熊神籬(くまのひもろぎ)の意味,出石(いずし)神社,出石と鉄,韓国神社から気比(きひ)神社まで;第三章 敦賀という場所:伊奢沙和気(いささわけ)=天日槍説,常宮(じょうぐう)神社と産小屋(うぶこや),白木の村で,敦賀の重要性,信露貴彦(しろきひこ)神社と久豆彌(くつみ)神社,振姫(ふりひめ)の出自をめぐって,大湊(おおみなと)神社と豪族三尾氏;第四章 出雲(いずも)と新羅(しらぎ):出雲の特殊性,消された新羅の痕跡,韓国伊太氐(いたて)神社の問題,出雲の深層,刻まれたルーツ─古墳・出土品・地名,神社信仰の原点,巨大神殿建立の謎;第五章 三輪信仰の謎:祭神の問題,出雲と大和の関係,近年の仮説,なぜ異族の神が祀られたか,渡来人の足跡,鉄をもとめて,出雲人の東漸(とうぜん),穴師(あなし)たちの巡行(じゅんこう);第六章 新羅から来た神─宇佐八幡をめぐって─:香春(かわら)再訪,古宮(こみや)八幡に導かれて,宇佐八幡の起源,辛島波豆米(からしまのはずめ)の記憶;第七章 慶州の堂(たん):堂信仰の歴史,済州(さいしゅう)島にみる原初の面影,離島の条件が可能にしたもの,新羅に眠る神の森,慶州へ,堂三木(たんさんぼく)を探して,古代の聖林,樹齢千年の欅(けやき),聖なる森の系譜─日本と朝鮮をつなぐもの
【Tags】神社の起源,古代朝鮮,岡谷公二,神道,近江,出石,敦賀,出雲,大和,朝鮮半島,慶州,済州,新羅,伽耶,高句麗,百済(くだら),渡来系,渡来人,天日槍(あめのひぼこ),白鬚神社,白山神社,宇佐八幡,出石神社,韓国神社,出雲国風土記,出雲国造(くにつくり)三輪信仰,素戔嗚尊(すさのおのみこと),辛国(からくに)
【評価】B
【評者】Vincent A.
【書評】本書は,日本固有のものと思われがちな神道の少なくとも一部に,古代朝鮮半島で信奉されていた神々の系譜が脈々と生き続けていることを,著者が近江,敦賀,出雲など日本海沿岸地域に点在する,原始朝鮮とのつながりを今なお色濃く残す神社を訪ね歩くことで明らかにしようとした書です。
本書の評価は分かれるところかと思います。本書を歴史紀行書,すなわち,各地の歴史的遺構を訪ね歩き,その風景と遺構にまつわる歴史を解説する書とみるのであれば,著者の独特の文体もあって読者から好評を受けることでしょう。しかし,本書を純粋に学問的興味から,すなわち,日本の神道に対する古代朝鮮の影響,より具体的には,古代朝鮮で信奉されていた神々と現在の日本の神社で祀られている神々との関係を知りたいがために本書を読む場合には,その歯切れのなさに不満を持つ読者が多いように思います。評者は後者,すなわち,純粋に学問的興味から本書を読みましたので,評価は高くありません。大きな理由は,本書は内容的にも,そして形式的にも,非常に読みにくいからです。
まず内容について。本書の題目は『神社の起源と古代朝鮮』とされており,本書の趣旨は,日本の神信仰の草創・展開に古代朝鮮の神信仰が大きく──もしくは決定的に──影響したことを明らかにすることにあると考えるべきかと思います。単に“日本の神道には古代朝鮮の神信仰の影響がみられる”と説明するだけでは,本書の趣旨からすると不十分でしょう。例えば日本の神信仰と古代朝鮮の神信仰の宗教文化的類似性を挙げるだけでは,一方が他方を模倣した可能性を指摘するにすぎませんし,同様に,日本の各地に古代朝鮮半島からの渡来人たちが建立したと思われる渡来系神社が現存していることを挙げるだけでは,渡来人たちが彼ら自身のために神社を設立した事実を追認するだけのことです。いずれも本書の趣旨を満たすに至らないはずです。
本書の趣旨を満たすためには,古代朝鮮で信奉されていた神々の系譜と現在の日本の神道で信奉されている神々の系譜が少なくとも部分的に一致すること,より具体的にいえば,古代朝鮮半島からの渡来人たちが日本で神社を建立し,半島で信奉していた神々を移住地で祀るようになったこと,そのような渡来人の神信仰が彼らの移動とともに日本各地に広まり,やがて日本の人々もその神々を信奉するようになったことを説明する必要があるはずです。しかし,この説明が本書では整理してなされていないのです。
古代朝鮮の神信仰と日本の神信仰の連関を考えるときには,神々の系譜が重要な要素となるはずです。なぜなら,神道の神々は,仏教の諸仏のような観念上の存在ではなく,それぞれ実存していることが前提とされており,かつ,キリスト教の神のような唯一無二の存在ではなく,八百万といわれるように多数の神々がおられることが前提とされているからです。神道は単に渡来人たちの神信仰を模倣したのではなく,渡来人たちが祀っていた神々を日本の人々も信奉するようになったこと,すなわち古代朝鮮の神々と現在の日本の神々の系譜の一致を明確に指摘しなければ,日本の神社の起源に古代朝鮮の神信仰が決定的な影響をしたことが説明できないはずです。この点において本書は未整理な部分が多く,非常に読みにくいのです。
著者は神々の系譜をよくご存じではなのではないでしょうか。それにもかかわらず,系譜が明確に述べられていないことに評者は少々じれったさを感じます。事実は事実として,明確に指摘すべき時期ではないかと思います。
つぎに形式面について。本書が読みにくいもうひとつの要因は,ルビが少なすぎることです。地名,人名,神々の名など,歴史上の固有名詞には読み方が難しいものが多く,本書でもそういったものに一応ルビは付されているのですが,ルビが付されるのは,基本的にその名詞が初めて記された箇所のみで,それ以降はルビが付されていません。しかし,難しい固有名詞の読み方をすぐ記憶できるとは限りません。章が変わり次章以降の章で同じ固有名詞がルビなしで登場すると,どう読むかお手上げとなることも珍しくありません。
例えば,どちらかといえば歴史は苦手の評者は,本書第二章『天日槍の問題』で繰り返し挙げられている「天日槍」という名を知りませんでしたので,間違いと思いつつも,しばらくの間,これを「てんにちそう」と読んでいました。天日槍が正しくは「あめのひぼこ」と読む新羅の王子の名であるのを知ったのは,書評を起こすため前章の第一章を読み直したときに,「天日槍」にルビが付されていることにようやく気づいたからです。
ところで,第二章『天日槍の問題』の本文は「天日槍については」という文言から始まっており,次のパラグラフも「天日槍のことは」という文言から始まっているのですが,いずれもルビがありません。実際はその数行後にルビが振られた箇所があるのですが,それは日本書紀の古めかしい文章の引用部分中であるため,評者はそれを読み飛ばし,ルビに気づきませんでした。このように,本書のルビの振り方はかなり不親切であろうと思います。「天日槍」は第二章の題目でもあるのですから,第二章の初出箇所にルビを振る配慮があってしかるべきかと思います。
また,固有名詞の読み方が難しいのは文字が難解な場合とは限らないのですが,本書ではいかにもルビが少ないのです。例えば常宮神社です。正しくは「じょうぐう」と読むのですが,これを「とこみや」と読んでもおかしくありません。評者が「じょうぐう」と読むことを知ったのはGoogleで読み方を確認したからです。そのほかに,余呉(よご)や出石(いずし)などの地名も簡単に読めない読者も多いはずですが,ルビがありません。
文字の読み方がわからないと,そのことに注意がそがれ,肝心の述べられている事柄の理解に悪影響が出ます。豊富な知識を持たない初学者でも気軽に読めるようにすることが新書の著者・編集者の務めではないかと思います。この点は著者・本書編集者に是非とも改善を求めたいところです。
*初稿2020/12/30