【書名】仏教と日本人
【著者】阿満 利麿(あま としまろ)
【発行】筑摩書房(ちくま新書)
【目次】第1章 地蔵の頭はなぜ丸い;第2章 「地獄」はいつの間にか「極楽」へ;第3章 日本の僧侶はなぜ肉食妻帯なのか;第4章 日本人に親しい仏たち;第5章 神さま仏さま;第6章 葬式仏教
【Tags】阿満利麿,仏教,宗教,仏,神,地蔵,塞の神,地獄,極楽,僧侶,葬式仏教,合理性,論理性
【評価】C
【評者】Vincent A.
【書評】「仏教と日本人」という本書のタイトルからすれば,本書は,仏教が日本人にどのような影響を与えてきたのか,あるいは日本人にとって仏教というのはどのような存在であるのかなど,仏教と日本人の関係性について論じているであろうと,おそらく読者はそう期待するのではないかと思うのですが,残念ならが本書はそのような書籍ではなく,単なる仏教雑学書に留まっています。本書を読めば仏教について底は浅いがそれなりに幅広い知識が得られるかもしれませんが,雑学は所詮雑学であって,真髄に迫るものではありません。実際,本書には仏教の真髄はほとんど述べられていません。
日本人は長い間「仏様」を信じてきました。仏様にも釈迦牟尼,仏陀,如来,菩薩,観音等々,様々な方々がおられるようですが,大勢の日本人がこれらの仏様によって精神的に救われてきたことは確かな事実でしょう。しかし,仏教界が漢語教典を年月をかけて日本語に訳出する努力を怠り,漢語が読めないほとんどの日本人に対して教義・教典を実質的にブラックボックスにしまい込んで知を独占してきた結果,日本人は仏教教義にはほとんど関心がなくなってしまったのです。日本人が仏教に興味があるとすれば,それは教義に対してではなく,仏様に対してです。その意味で日本人にとっては「仏教=仏様」といってもよいほどです。
ですから,書名に「仏教と日本人」というタイトルを付すのであれば,仏教において仏様とはいったいどのような存在であるのか,そして,その仏様が日本人にどのような影響を与えてきたのかを丹念に述べるべきと思います。
本書のもうひとつの特徴は記述の仕方に仏教色が非常に強いことです。仏教について論じている書が仏教的なのは当然と思われるかもしれませんが,そういうことではなく,仏教について論じている著者の思考プロセスそのものが著しく“仏教的”なのです。例えば,著者は本書冒頭で「地蔵」を取りあげています。
著者曰く:地蔵は村境に置かれていることが多い;原初は石を積み上げたもの,石棒,人の形を彫った石像で,これが村境に置かれた理由は,「他界」のよからぬモノが村内に侵入することを阻止するためであり,「塞の神」とよばれていた;仏教が伝来し,末法思想・浄土信仰の拡大にともない地獄の救世主としての地蔵信仰が広まり,従来の塞の神に代えて地蔵が村境に置かれるようになった;この変化は「庶民レベルにおける宗教の発見といってよい」(p35);なぜなら,塞の神は単に悪霊・死霊を封じ込める呪術機能があるだけで,そこには救済がないが,地蔵には悪霊・死霊の排除だけでなく慈悲という救済思想があり,地蔵が広まることで人々が慈悲という考え方に親しむようになったからである;呪術は人間の欲望が生み出したもので「欲望の実現のためには,神仏をも脅迫する,それが呪術的思考の特徴といえる。それにくらべると,宗教は,やはり科学的証明が不可能な観念を用いるが,人を納得させる『合理性』がある。呪術の観念連合はあからさまに非合理的だが,宗教の教えは人を納得させるだけの論理性をもつ」(pp37-38)。
著者は呪術がお好きではないようですが,実は仏教はキリスト教やイスラム教とくらべて呪術性がきわめて強い宗教なのです。もし呪術が非合理というのであれば,仏教も非合理性を十分に兼ね備えたものといえるでしょう。それはさておき,著者は合理性・論理性を大変に重視しており,この合理性・論理性が整えられたものだけが宗教で,それがない「塞の神信仰」は宗教ではないと考えているようです。
著者の立場からすると,日本人は仏教が伝来して初めて宗教に目覚めたということになり,仏教伝来以前から日本にあった神道(古神道)はとうてい宗教とはいえない代物になります。なぜなら,著者がいうところの宗教の合理性や論理性というのは,根本的にはその宗教の教義・教典からもたらされるものなのですが,神道には仏教のような明確な教義や教典はないからです。これはいにしえの古神道や神祇信仰だけでなく,現在の神道も基本的に同じです。したがって著者の考えによれば,神道は古神道であれ現在の神道であれ,宗教とはいえないということになります。
しかし,神道的な考え方からすれば,塞の神として村境に祀られていた石や石像に実際に塞の神がおられたか,あるいは塞の石・石像が神霊の降臨する依代のようなものであった可能性は大いにあります。もし神道でいうところの神々が実在するのであれば,塞の神を祀ることは村民にとって大事な“宗教行事”だったはずです。そこに“教義にもとづく合理性や論理性”があるか否かはまったく問題になりません。著者のように合理性・論理性の有無を宗教か否かの判別基準とすること自体が,仏教的観念論に陥っていることの表れに他ならないのです。
おそらく著者は神の実在を信じていないのでしょう。それもひとつの考え方ではありますが,著者は神だけでなく仏の実在も信じていないようです。仏は観念上の存在で実在するものではないと単純に決めつけているからこそ,論理性・合理性を過大視することができるのだと思います。
*初稿2016/09/17,更新2018/06/01
*本稿はdiscoverjaponism.comに掲載されていた同名記事に一部修正を加えたものです。